郷土の歴史文化掘り起こし隊/聖書勉強会報告
故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。
今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。
その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。
T 今日(11/02)の聖書
■創世記4・1〜10 ◆カインとアベル
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
4:9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
4:10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
■Iヨハネ3・9〜18 ◆神の子たち
3:9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
◆互いに愛し合いなさい
3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
■マルコ7・14〜23
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
U 要旨/堕落
▲なぜ神はアベルにのみ目を留められたのか。誰もが抱く疑問である。
テキストに即していえば、アベルはヘベル(息、はかなさ、空虚さ、無価値)であって、カーナー(形作る)を語源として力強い生命力を表すカインと対照をなしていることが鍵である。
神は弱い者を顧み、特別な恵みをお与えになったのだ。イスラエルが神の民として選ばれたのは、「他のどの民よりも貧弱であった」(申命記7章)からであるのと同じように。
しかしヤハウィストの時代、イスラエルは強国となり弱小勢力をなぎ倒す力を持つものとなっていた。だからこそ兄弟との関係の破壊を描くこの物語が語られたのだろう。
弟だけが祝福を受けたことにカインは激怒する。彼は弟と自分を比べたのだ。競争の構図において比べたのだ。耕作と牧畜という異なる領域が兄弟に与えられたのは示唆的である。
野菜も必要であり、羊毛や羊肉も必要なのだ。不遇をかこつ人は必ず存在するし、だからこそ好調の時を過ごす人も必要なのだ。あい補うために兄弟がいる。
しかし比べ始めたカインは、弟も神も怒りの矛先とし、顔を伏せてしまう。顔を上げられない兄は罪に支配されてしまう。兄の選択は弟を消すことであった。
「○○さえいなければ」と人は時として考える。「あの人さえいなければ」、そう考える時、私は既に心の中でその人を抹殺し始めているのではないか。
主は「お前は罪を支配せねばならない」と警告する。しかし顔を伏せる者は、罪に支配されてしまうのだ。
強者は弱者を消し去ることができる。しかし神の問いかけは絶対に消えない。「お前の弟はどこにいるのか」。この問いから逃げることはできない。あなたの大切な兄弟はどこにいるのか。いくら「知りません」と言おうと、血が土の中から叫ぶのだ。
イエスに従う者はこの物語をどう読むか。それは、イエスぬきには受け止められない課題である。
イエスはアベルのように消された。この世に人間として来られた神の子は、妬まれ、激しい怒りをかって殺された。大地に血が流された。その血は我々罪人への呪いとして、我々を追いかけ苦しめるものとなったのではなかった。
その血は、罪人をゆるし、救いを与える新しい契約となったのだ。イエスの血によって新しい命を与えられた人々にとっての課題とは、イエスにあってカインをやりなおす.ことではなかろうか。顔を上げ、妬みと怒りに終止符を打ち、兄弟と共に生きる者として、もう一度カインをやりなおすのだ。 89
▲どうして、神はアベルとその献げ物に目を留め、カインとその献げ物には目を留められなかったのだろうか(創4:4〜5)。新約聖書は、カインのほうが悪かったこと(1ヨハネ3:12)、アベルの献げ物のほうが優れていたことを暗示するが、それはわからない。
ここには神の自由な選びがある。神は人間の道徳規準、価値基準に従って行動するわけではない。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。
神なりのえこひいきはあるかもしれない。神は弱い者、小さい者に心を留められる。ここでも弱く、小さな存在であるアベルのほう.を顧みられたのかもしれない。カインは長男として、より強い者、より祝福された者、どんなことでも最初の権利は自分にあるという思いの中で成長したのではないか。
「カイン」という名自体、「得た」という親の喜びを表し、他方、「アベル」の名は「はかなさJ「無価値」を表している。カインにとってアベルは決して対等な兄弟、隣人ではない。人は自分が恵まれている時は案外それを当たり前のように感じているが、一たびそれが逆転すると、それまでのことを忘れ嫉妬に燃え始める。
神はカインがアベルを殺したのを見過ごさない。「弟アベルは、どこにいるのか」という問いは、アベルのための問いであると同時にカインのための問いでもあった。これ以降の
物語は、「主が目を留められなかった」カインを中心にして展開する。主はカインを選ばれなかったのではなく、カインに「私が弱い者をひいきにするとき、お前もそれを一緒に喜んでくれるか」と招かれたのかもしれない。
私たちが、この世界で他者と共に生きる時、「お前はどこにいるのか」(創3:9)という問いは、必然的に「お前の兄弟はどこにいるのか」という問いを含んでくるのである。
V 教会の暦では、 明日(11/03)は 降誕前第8主日 B年
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富津市のパワースポット 不入斗六所神社獅子神楽
不入斗(いりやまず)六所(ろくしょ)神社に奉納される神楽(かぐら)は「岩戸神楽」と呼ばれ、笛・太鼓・唄などの数曲を組み合わせて、神楽獅子が構成されています。
この神楽は、2人立ち1匹獅子で、その所作は、雌獅子の柔らかな女踊りです。
この一頭の獅子頭を2人で演じます
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奉納の獅子頭は約30分にわたって演じられます