メタボ治療薬を服用しつつ、「らくらく」「なめらか」「さえざえ」「ダイエットパワー」「フォースコリー」「ニュースリム」「COQ10」「ブルーベリー」「DHA」「パーフェクト野菜」などを毎日1錠 。3年以上続けています。

体重68s→62s台、体脂肪率26%→22%台、血糖値は下がりつつあるが、基礎代謝量、筋肉量、骨量は減り気味。どこかおかしくないか。

身体的、地域的、文化的、精神的な活動面はブログの他自己紹介欄を。(初回2012.01.12 ths 。一部改訂14.9.28 sun。)

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後期高齢者‐ 館山道で故郷へ[131] [2015年05月02日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(05/02)の聖書/申命記7・6〜11 ガラテヤ3・23〜4・7 ヨハネ15・12〜17

■ヨハネ15・12〜17◆イエスはまことのぶどうの木

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

U 要旨/神の子の自由

▼ 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15・12)とイエスはおっしゃった。掟というと、主人の命令に、嫌いで服従を強いられるといった面倒なイメージがある。

 イエスが与える掟は、そうではない。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。……わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15・15)といっている。

イエスを信じてキリスト者になった者は、罪の奴隷であったところから解放され、父なる神に神の子として認められ、自由の身になっているのだ


 しかしそれでも、掟など自分に関係がなくなってしまうということではない。イェスは神の子であり、自由な存在だが、自ら進んで神に従い、人間を愛して、十字架にかかったのである.神の子の自由をもって神の掟に従った。.

 私たちも、イエスによって神の子となり、自由な身とされている。そうだとするならば、イエスのように自由な意志で、神の掟に従うようになるはずなのである

父なる神と、イエスが愛しておられる人間を、私たちも愛するようになるはずなのである。

 信用に値しない僕は、強制し、命令を与えなければならない。しかし、イエスは、.私たちのことを「友」と呼ぶ。愛して、信頼して、期待していてくれる。

だからこそ、御自分の働きを手伝わせてくださる。人に信用され、期待されると嬉しい.。そのとき、その人の信用と期待に応えたいと思い、自主的に努力をする。

また自主的に行うのであれば、大変なことをする場合でも辛くはない。むしろ、楽しいことになる。だから、イエスが与える掟は、喜び、楽しみを私たち自身にもたらす

 一つ心配なのは、「互いに愛し合いなさい」との掟に従おうとしても、自分独りでは「互いに」とはならないことだ。相手が必要である。では「互いに」となるように、相手が愛してくれるのを待っているべきだろうか。

そういう姿勢ではいつまで経っても、この掟は守れない。父なる神が、御自分に背き続ける人間に対して、独り子をおくり、犠牲にされたように、またイエスが、十字架の上で、自分を攻撃する群衆のためにとりなし祈ったように、私たちも神の子として、自ら進んで人を愛していきたい。

▼ヨハネのテキストでは、イエスが「友」として表現されている。太宰治の『走れメロス』の題材になったと言われる古代ギリシャの『ダモンとフィシアス』に描かれているように、古代社会・文学の中でも死をも辞さない友情・友は非常に重要視されていた。

現代のわたしたちにおいても、友達はとても重要な役割を果たし、こどもたちや青年たちにとって楽しく生活することが出来るかどうかの重要な要因です。そのテーマをヨハネは意識して、イエスをわたしたちの「友」として表現している。

古代ローマの友情のテーマの背景には、「では、その真の友とはいったい誰なのか。わたしはそのような友を持っているのか」という問いがあった。

その問い、また人々が持っている友への憧れに対して、ヨハネは選びというテーマで応えている。イエスをわたしたちの友として理解する以上に、イエスの「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(15節)に注目。

わたしたちがイエスを「友」と呼べるのはイエス、がわたしたちを「奴隷、僕」としてではなく、「友」として選び出し、わたしたちを.「友」と呼んでくれたからだ。

そこにはわたしたちを圧倒するイエスの選びがある(「わたしがあなたがたを選んだ」16節)。そして何よりもわたしたちのためにイエスがご自分の命を捨ててくださったことが、イエスが真の友であることの証しです。

イエスを、依存的な友情関係の中で理解するのではなく、わたしたち自身もイエスの「友」として、愛されている存在、そして愛している存在として理解する必要がある。

大切なのは、わたしたちがイエスの友として何をしなければならない、何をしてはならないということではない。

ぶどうの実のように、イエスと結びつくことによって、その愛に生かされてどんな実を実らせるのか楽しみにしたい。

V 教会の暦  明日(05/03)は C年 復活節第5主日

W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

帰りに、今日も、小さいころお祭りで遊んだ神社の前を通ってみた。
 
いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐ 館山道で故郷へ[130] [2015年04月25日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(04/25)の聖書/出エジプト16・4〜16 1コリント8・1〜13 ヨハネ6・34〜40

■ヨハネ6・34〜40 ◆イエスは命のパン

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。

6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。

6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

U 要旨/命のパン

▼ 「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(ヨハネ6・34)と、群衆がイエスに願った。イエスが「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」といったからである。

かつてモーセが率いるイスラエルの民は、天からのパンであるマンナを与えられたことで、40年の荒れ野の旅においても、飢えることなく養われ導かれた。

イエスも5000人の群衆に、パンと魚を与え、満腹になさったので、群衆はこの方こそ申命記18・15で予言されていた来るべきモーセのような預言者にちがいないと期待した。

しかし、群衆が求めていたものは、イエス御自身ではなかった。 5000人に食事を与えるほどの力があれば、ユダヤをローマから解放してくれる。

ローマから解放されたら、ユダヤ人は異教徒の支配から自由になり、生活も楽になることだろう。そして食べる心配などもしなくてよくなるだろう。群衆は、それこそが神の救いであり、人間の幸福であると思っていた。

私たちも、生活の中でいちばん気に掛けているのは、食べることである。また食べるためにお金を得ようと必死になる。それが満たされていれば、幸福に生きられるかのように思ってしまう。

しかし、そういうことで人間は幸福になることはできない。いくらパンを食べて満腹しても、一時的なことであって、また飢えてくるように、命そのものを完全に満たすことはできないのだ。

飢え渇きをなくすことができるパンは、命そのものを満たす「命のパン」なのである。
イエスは「わたしが命のパンである」といった。空腹を満たすためのパンではなく、命のパンが必要であるということだ。

またイエスが命のパンを調達してくださる方だということではなく、強い調子で御自分自身こそが「命のパン」であることを指し示されるのである。

命が永遠に守られるためには、神との和解が必要なのである。罪を犯した人間がいかにして神と和解することができるか、それは十字架におけるイエスの贖いによるほかはない。

私たちは、イエスによって罪赦され、神と和解し、祝福を受けて永遠の命に生きることができるようになる。 イエスは、十字架の死の後、三日目に復活された。命のパンであるイエスは、私たちにも復活の命を与えてくださる

V 教会の暦  明日(04/26)は C年 復活節第4主日

W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

帰りに、久しぶりに、小さいころお祭りで遊んだ神社の前を通ってみた。
神社の名称をどうしても思い出せないので、隣接する阿弥陀寺へ詣でていた方に聞いてみた。その人も知らないという。確か、坂田神社だと思うが ? 。

いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐ 館山道で故郷へ[129] [2015年04月18日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(04/18)の聖書/イザヤ51・1〜6 Iコリント15・50〜58 ルカ24・36〜43
■ルカ24・36〜43 ◇弟子たちに現れる
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた

24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。

24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

U 要旨/復活顕現

▼ エルサレムで弟子たちが集まっていると、復活のイエスが姿を現された。しかし弟子たちは亡霊だと思い、怖くなってしまった。

イエスを裏切った弟子たちであったから、イエスが亡霊となって呪いに来られたと思ってしまったからだろう。

 そこでイエスは、御自分の手足を見せられた。釘による傷跡が見えた。
さらに弟子たちの前で焼いた魚をお召し上がりになった。健康な体でないと、食べることはできない。

つまり御自分が亡霊のようなものではなく、本当に復活したことを、お示しになるのであった。

 完全な体での復活は、弟子たちの罪を完全に赦されたことのしるしでもあった。今、まで弟子たちは、いつもイエスと一緒に生活し、食事を共にしてきた

愛に結ばれた交わりであった。愛する者との食事は楽しい。しかし、ユダが裏切ったことで、イエスが捕らえられ、他の者もイエスを見捨てて逃げてしまった。

そのようにして弟子たちが皆逃げ去った結果、イエスは十字架で殺された。このことによって、イエスと弟子たちとの交わりは断たれ、楽しい食事は中断されたのだ。

復活のイエスを見ても、亡霊ではないかと弟子たちが疑ったのは、自分たちの犯した罪は取り消せない、赦されないという思いがあったからではないか。

 そこでイエスは、完全な姿であることを示そうとして、手も足も見せてくださり、さらに、「焼いた魚」を食べて見せてくださった。

むしゃむしゃと食べる様子は、聖なる神の子というよりも、実に人間らしい仕草だ。生きた人間らしい姿だ。そのようにしてイエスは、完全な体で復活したことを示し、弟子たちを完全に赦したことを示されたのだ。.;

 イエスと弟子たちの食事は再開された。イエスが弟子たちを愛し続けておられ、彼らの裏切りを赦してくださった。それを示すためにも復活して、弟子たちの前においでになったのだ。:

 やがてイエスが天に昇られ、お姿が見えなくなった後も、弟子たちはイエスとの食事を聖餐を行いながら守り続ける。

私たちも聖餐を行うことで、イエスが私たちの罪を完全に赦してくださったこと、そして今も私たちと愛の交わりを続けていてくださることを信じたい。

▼イエスの復活を肉体の復活として理解するのか、それとも霊による復活として理解するのかということは、初期キリスト教会の中でも議論になっていた。

ルカには、自分の目の前に現れたイエスを「霊」として理解しようとする弟子たちと、それに対してご自分の体を触らせたり、彼らの前で焼魚を食べたりして、「肉体」を強調しようとするイエスが対比的に描かれている。

イエスの弟子たちがなかなかイエスの肉体を伴った復活を理解できない背景には、ギリシャ的な考えがある。

つまり霊魂と肉体は別々のものであり、霊魂が肉体という牢獄から解放されることが救いだという考えです。

確かに肉体は、老い、病、苦しみ、欲望そして死に支配されている。人間はこの世的な思い煩いから解放されることに憧れる

またそういう思いに囚われないことを信仰者の理想的な姿として考える場合もあるし、こういう思い煩いからの解放を神に願うことに宗教の目的を見いだしていることもある。

しかし、イエスの復活は、肉体と霊が分けられるものではなく、イエス全体の復活です。肉体はもはや霊魂の牢獄.ではなく、復活を経験する場となった。

そして、そのイエスは弟子たちにイエスの体に触れるように促す。イエスは、わたしたちがイエスの肉体を通して神に触れることへと招いている。

それは精神や霊魂で神を経験したり、死後において神と出会うことではなく、肉体によって悩まされ、それによって魂も曇り、またその逆に肉体も魂も喜びを感じるわたしたちを、そのままで神を経験することへと招いてくださっている。

そこには、交わりがあります。食事をするということは、まさにいのちを象徴する交わりです。復活の主との出会いは霊と体の一致、人間と神との交わり、人と人との交わりをもたらしてくれる。

V 教会の暦  明日(04/19)は C年 復活節第3主日

W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐ 館山道で故郷へ[128]  [2015年04月11日(土)]
郷土の歴史文化掘り起こし隊/4月例会報告

T 市の出前講座 「小中学生の生活について」(教育センター)

ケータイ&スマホ、正しく利用できていますか?(小中学生版)(2015年版)
1 みんなを守る「いじめ防止対策推進法」
いじめ防止へ学校や地域が協力/平成25年9月、国や市町村や学校がいじめ防止に取り組むことを定めた「いじめ防止対策推進法」が施行されました。この法律では、インターネットを通じて行われるいじめの防止にも取り組むことが定められています。

  2 楽しいSNSにひそむ危険…SNSで知り合った人とトラブルに!
   だまそうとする人は本当の自分を絶対見せない

  3 ハマり過ぎに注意!「ネット依存外来の受診者が急増」
   自分はインターネットをやめようと思ってもやめられない。―こんなふうに感じた  ことはありませんか?
  大人がお酒やタバコへの依存をやめるために病院に通うことは昔からありましたが、   最近は、インターネットの利用を自分の気持ちで止めることが出来ないいわゆる「ネ  ット依存」で体調をくずし、学校に行けなくなり、医師に助けを求める青少年が急増  しているようです。

詳しくはここを見てね

U 協議

  7月以降の計画について協議決定。

V その他
今日は、教育センターの都合で、午前10時からの出前講座となった。定例は、午後1  時。

早く会議が終わったので、加療透析中の弟(君津・76歳)を、妹(鎌倉・73歳)とともに、見舞った。経過は良好のようだ。

  帰りに君津駅近くのタリスで休息をとり、久しぶりに、妹と、ゆっくり話すことがで  きた。
    
  帰りの館山道の流れはよかった。



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後期高齢者‐館山道で故郷へ[127]  [2015年04月04日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(04/04)の聖書/イザヤ54・4〜14) ローマ6・3〜11 ルカ24・1〜12

■ルカ24・1〜12◆復活する 24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


U 要旨/キリストの復活

▼私たちはイエスの復活記事を読みながら、神はなぜもっと信じやすいように復活を
示さなかったのだろうかと疑問を抱く。

たとえば、墓が空になっているのではなく
て、婦人たちが着いたときはまだイエスの遺体がそこにあってもよかったのではない
か、そして婦人たちが香油を塗ろうとしたときに、イエスが起きあがり、亜麻布をほ
どいて婦人たちに語りかけるというような具合にならなかったものかと思うのだ。

また、復活したイエスがペトロの到着までそこに待っていてくれたらとも思う。
しかし、神はあえてそういう方法はとられなかった。なぜなら、復活の出来事その
ものは神の世界に属する出来事であって、地上の人間の感覚ではっきり確かめること
ができるというものではないからだ。

こちらから復活の主に近づくことはできないし、近づこうとしてもならないのである。復活のイエスとの出会いは、イエスのイニシアティブによって起こる。

復活のイエスはいつも御自分のほうから自在に姿を現してくださった。時には見知らぬ旅人に身をやつすこともあった(ルカ24・15以下)。

ただ、現在の我々は復活のイエスを見ることはできない(1ペトロ1・8)。では、どうやって人はイエスの復活のリアリティを信じる者になることができるのか。

ルカ福音書はひとつだけ主の復活を信じるためのヒントを与えている。それは、24・6〜7
のところである。

天使たちはこう言っている。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。

この「必ず・・・ことになっている」とは、聖書に予告されているので必ず実現するという意味である(24・27、44、46参照)。これは、言い換えれば、聖書をよく読み直してみるならば、イエスの復活の必然性がわかるだろうということだ。

ルカによれば、メシアの苦しみと死と復活は聖書全体のエッセンスである。そして、復活のイエスが心の目を開いてくださるときにそのことがわかる(24・45)。

私たちはいつも聖書全体に親しんで、主は本当に復活して生きておられるという、この信仰を培いたいと思う。すでに信じたと思っても、いっそう深く信じるために、引き続き聖書全体に親しみたいと思う。

主は復活して本当に生きておられる。このことが心からわかったときに、我々の信仰は大きな力を得て、最初の教会がそうであったように、証しと伝道に励む者に変えられるのである。

▼イエスの墓を訪れた婦人たちに対して、輝く衣を着た二人の人が「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(5節)と語った。

この言葉はわたしたちにとっても非常に重要なのではないか。わたしたちもイエスを死人の中に捜していないか。そして、イエスを見いだすことができないと嘆いていないか。

イエスを過去の物語の中に、歴史上の出来事の中に捜していないか。そのようなわたしたちに聖書は「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(6節)と語る。

あなたが捜しているところにはイエスはおられない、復活されてあなたのいのちに関わるところにおられるのだといわれているのではないか。

復活はまさに、いのちの問題で、復活のイエスは生きておられる

そうであるならば、生きておられるイエスは、まさに生きているわたしたちの現実の中におられるのであり、わたしたちはイエスをわたしたちが生きている現実の中に捜さなければならない。

そのことに気がついた婦人たちは、イエスの言葉を思い出す。イエスが十字架にかかり、復活する以前に何度となく聞いていた言葉の意味が、復活の光に照らされて、初めて理解することが出来た。

死に支配されていた世界では理解することが出来なかったことも、復活の光に照らされて理解することが出来た。

それは、自分自身の理解にも関わってくる。死の支配のもとで理解することが出来なかった自分のいのちの意味を、復活の力のもとで理解できるということである。

復活を語った女性たちと、まだ死の支配にありながらも、それに気がつかず賢者ぶっている男性使徒とのコントラストが描かれている。

礼拝の中で「わたしは○○にイエスを捜しましたが、そこにはイエスはおられませんでした」という祈りをしてはいかが。典礼色は復活を表す白です。


V 教会の暦  明日(04/04)は ⊂年 復活日/イースター


W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

3月の例会に出席できなかったので、中央公民館へ寄ってみたが、特に用事はなかった。

聖書勉強会は、ゆっくり時間が取れたので、教会づくりの夢などを話し合った。

いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐館山道で故郷へ[126] [2015年03月28日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(03/28)の聖書/イザヤ56・1〜8 ヘブライ10・1〜10 ルカ23・32〜49.

■ルカ23・32〜49.◆十字架につけられる
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。

23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

◆イエスの死
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた

U 要旨/十字架への道

▼十字架上でイエスの脇にいる二人の犯罪人は対照的だ。一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしる(ルカ23:39)。

もう一人の犯罪人がその男をたしなめる。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(23:30-41)。

ここには自分の生き方への深い反省と共に、イエスの無罪性を信じる告白がある。そして、イエスが何の罪をも犯していないということは間接的にイエスの十字架が何のためであったかを指し示している。

それは、あの二人のように自分の罪のゆえではなくて、他の人々の罪を贖うためであり、罪人を神との交わりへと招くためであった。

ルカの描く、あの悔い改めた犯罪人も、そのような理解をもってイエスを見ていたと考える。そのことは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください(23・42)という懇願の中に表されている。

これに対して、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)とおっしゃった。

イエスの返事は、遠い将来ではなく、この今というときに、すでにあなたはパラダイスに入ったと考えてよろしいという。十字架上のイエスの強い救いの意志を見ることができる。

この場面はイエスの生涯の最後にふさわしいものだと言える。ここで、今までまったく正反対の生き方をしてきた者同士が出会っている。一方は罪なき神の子であり、もう一方は悪事を重ねて裁かれ、ついに社会から抹殺されようとしている犯罪人である。

本来なら絶対に交わることのない二つの線が、この十字架で交わっている。そして、闇の中を歩み、滅びに突っ走るばかりだった一人の男が、光に包み込まれていくのを見る。

十字架がもたらすものはこれだとルカは最後に伝えたかったのではないか。そして、ここに、すべての人の救いの希望がある。

また、ここには、臨終の間際にパラダイスへの切符を手にした一人の好運な男がいる。苦労して長い信仰生活をまっとうした人や殉教者たちが気の毒になるくらい、この男は最後のワンチャンスをものにして救いに入れられた。

こういう天国への行き方もあるのかと知らされる。神の憐れみにはいかなる制限もない。必要なことは、悔い改めて十字架のイエスに救いを求める心だけである

▼今日から受難週に入ります。この一週間、イエスの十字架を思いながら一日を過ごす。キリスト教の伝統の中には、イエスの受難を14(もしくは7、15)の場面に分け、その場面を描いた絵やレリーフを一つずつ訪れながら、イエスの受難物語を辿り、十字架の意味について黙想するというものがある。

ルカのテキストはオリーブ山での祈りからイエスの死にまで至るものです。聖書朗読を聞くだけではなく、絵画や音楽、動きを用いて、礼拝者が受難物語を身近に経験できるような工夫するのも良い。

しかし、そこに苦しみの聖化がなされるべきではない。苦しむこと自身がすばらしいわけではなく、イエスが苦しまれたように、わたしたちも苦しむことを神は求められているわけでもない。

イエスは苦しみの奴隷ではなく、苦しみの解放者です。十字架への道は復活へと至る道です。

イエスの十字架が現在のわたしたちとどのような関係にあるのかに集中することが求められる。イエスの「今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23章43節)という言葉も、「今日」におけるわたしたちとイエスとの関係を問うている。

オリーブ山、そして逮捕の場面でも、傷つき、裏切り、弱さを背負った人が、イエスと出会っている。それにつづく十字架の場面では、人々は神が介入されることを願い、また共に死を経験することしかできない人々が共に希望を持ち、これが全ての終わりではないことを信じている。

イエスを裏切る人々、暴力で押さえつける人々、嘲笑う人々の声も、むしろ「自分を救って欲しい」というような叫びにも聞こえてくる。そここそが真にイエスとの出会いの場であることをイエスの受難物語は語っているのではないか。

V 教会の暦  明日(03/29)は ⊂年 棕櫚の主日 復活前第1主日 受難節第6主日 四旬節第6主日

W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐館山道で故郷へ[125] [2015年03月21日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(03/21)の聖書/哀歌1・1〜14 ヘブライ5・1〜10 ルカ20・9〜19
■ルカ20・9〜19 ◆「ぶどう園と農夫」のたとえ
20:9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。

20:10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
20:11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。

20:12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』

20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

U 要旨/十字架の勝利

▼悪い農夫の話は、神が導いてきたイスラエルの歴史をわかりやすく描いた寓話である。神は人類の歴史の中に御自分を敬う民を残そうとイスラエルを選び、そこに王や宗教的指導者を立てて管理を委ねた。だが、指導者たちは神の思いを汲んで働くことをしない。

自分たちの思いに従って民を治め、過ちを繰り返す。そこで、神は預言者を遣わして正しい道を教えようとした。忍耐強く何度も何度もそうした。しかし、指導者たちは言うことを聞かず、預言者を排斥し、迫害さえした。

そこで、神は最後に御自分の子を遣わせばきっと敬ってくれるだろうと、愛する息子を遣わしたが、これさえも指導者たちは排斥し、殺してしまった。

イエスに殺意を抱いていたエルサレムの指導者たちが、これを聞いて自分たちへの当てつけだと感じたことは無理もない。彼らがしようとしていたことをずばり言い当てたに等しい話だったからである。

イエスの語った寓話はさらに続く。このことのためにぶどう園は農夫たちから取り上げられて、他の人々に与えられることになる。

他の人々というのは、キリストを「隅の親石」にして立てられる教会とその指導者を指す。ここでは指導者に対する最終的な裁きと、神の民を委ねる新しい指導者の誕生が暗示されている。

そういうことをイエスは宣教活動の終わりに語った。旧約のイスラエルからイエス・キリストを経て新約の教会へと至る流れが、ここに見事にまとめられているる。

私たちはこの話を通して、いくつかのことを教えられる。一つにはいかに人間が神を忘れやすいかということであり、もう一つにはそういう人間に対して神はいかに忍耐強く関わってくださってきたかということであり、さらにもう一つはイエス・キリストを拒んでしまったらもう後はないということである。

この話を通して、現代に生きる私たちも神に従いきれなかった自分を深く反省し、神の忍耐と憐れみに感謝しながら、謙虚にイエス・キリストの教えに耳を傾けなければならないと思う。

V 教会の暦  明日(03/22)は C年 復活前第2主日 受難節第5主日 四旬節第5主日 

W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐館山道で故郷へ[124] [2015年03月07日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(03/07)の聖書/イザヤ63・7〜14 Uテモテ2・8〜13 ルカ9・18〜27

U 要旨/受難の予告
▼イェスの評判は短期間の間に広まり、人々がイエスのもとに殺到した。彼らの中には、イエスを洗礼者ヨハネだといい、エリヤだといい、昔の預言者が生き返ったのだという人もいた。

要するに、イェスは神のもとから遣わされた偉大な人物で、特別の霊と力をもっているということである

これに対して、ペトロは言った。「神からのメシアです」(ルカ9・20)。これは、神が世の終わりに遣わすと約束した究極の救済者であるという理解だった。

こういう自分の評判と信仰告白を聞いて、イエスは何を思ったか。一つは、これまでの自分の働きが大きな反響を巻き起こしたことへの満足だったかもしれない

しかし、もう一つは、もうこのへんで本当のことを打ち明けねばならないという決意であった。それは、御自分が人間の理解を超えたメシアであり、苦難と死へと向かっていくよう定められているということだった。

初めからそんなことを打ち明けていたら誰もついてこなかっただろう。だから、なかなか話せず、イエスはそれを自分の胸に秘めてきた。しかし、弟子が正しい信仰告白をした今、もう隠しておくことはできない、話さねばならないと、ついに決意した。

イエスという御方は十字架の死を遂げることなしには、使命をまっとうできないメシアなのである。

イエスは神の国の到来を告げ、神の救いの意志を明らかにし、力ある業によって語ったことを立証したが、それだけではまだなすべきことの半分なのである。

後の半分は、人々が神の国に入れるよう、条件を整えてやるということだった。つまり、神と人とを隔てているもの、罪と汚れと背きを、自分がすべて背負つて、人々を聖なる神の前に立てるようにするということだった。

そのために、苦しみを受け、身代わりの死を遂げねばならない。これが、イエスが神から授かった定め、最も大切な使命だった

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9・22)

マルコとマタイは、受難予告を聞いたペトロがイエスをいさめたという有名なエピソードを語るが、ルカはなぜかそれを省いている。

そのことにより、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(9・23)という教えが受難予告と密接に結びつけられる。

「日々」はルカが挿入したもので、十字架を背負うことを日常的課題として理解させようとしている。

▼イエスとは一体誰なのか。これが、福音書の最も大きな関心である。ルカのテキストは、ヘロデがイエスは誰であるのか戸惑う物語に呼応している。

今日においても、イエスとは一体どういうおかたなのかは大きな問題ではないか。ヘロデの「いったい、何者だろう」(9節)はまさにわたしたちの問いでもある。

もちろん、ペテロがイエスによって導かれて出した答えを、わたしたちの「正解」として覚え、そのようにイエスを語ることが出来る。

しかし、その答え「神からのメシアです(キリスト)」(20節)は、その内実を問うてくる。そのように答えることではなく、イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と命じている。

それは具体的には、まさに復活のイエスにしたがっていくものの姿ではないか。

ここで、わたしたちは共通の答え「あなたは神のキリストです」から、「自分の十字架」という個別の生き方におけるイエスとの多様な関わりが問われている。

いったい自分の十字架とは何なのか。聖書的には、十字架の主に従うことを示す十字の印を焼きつけられることだが、その従うあり方は「自分の十字架」として様々な可能性を持っている。

イエスが、「あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いをわたしたち自身に向けている。

その答えは、わたしたちの思い込みではなく、理想像の投影ではなく、イエスとの関わりにおいて、導かれるものではないか。

受難の予告は、復活へとわたしたちを導いてくれる言葉。自分の十字架を語り、それがどのような復活へと繋がるか。

■ルカ福音書9・18〜27 ◆ペトロ、信仰を言い表す 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

◆イエス、死と復活を予告する 9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

V 教会の暦  明日(03/08)は C年 復活前第4主日 受難節第3主日 四旬節第3主日

W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

富津岬荘で合宿をしている成城大の学生と一緒になったが、皆、飲み物を飲みながら、一生懸命メモを整理している様子なのであいさつだけで別れた。

いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐館山道で故郷へ[123] [2015年02月21日(土)]
◆郷土の歴史文化掘り起こし隊

故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。

今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。

その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。

◆聖書勉強会報告

T 今日(02/21)の聖書/申命記6・10〜19 ローマ10・8〜13 ルカ4・1〜13

U 要旨/荒れ野の誘惑

▼日本語では、誘惑という言葉と試練という言葉を使い分けるが、この二つは聖書のギリシア語では同じ一つの言葉、ペイラスモスである。ある同じ一つの出来事が、我々の関わり方しだいで誘惑となることもあるし、試練となることもあるということである。

無警戒な態度で関われば、それは我々を堕落させる誘惑になりかねないが、御言葉への信頼と祈りをもって対処すれば、それは我々の信仰の質を高めるよい機会(試練)となるということである。

荒れ野の誘惑でイエスはよい模範を示している。イエスは悪魔の誘惑に対して、3回とも聖書の言葉を引用して対抗している。すべて申命記の言葉である。「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8・3)。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(6・13)。「あなたの神である主を試してはならない」(6・16)。

申命記は、荒れ野での民の失敗を振り返り、これから入って行こうとする約束の地での生き方を教えた書物だからである。

今日読まれた6章でも、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい」(16〜18節a)と言われていた。

こういう性格の書物なので、荒れ野の誘惑に際して最もふさわしい手引きとなった。神の言葉を自分の拠り所とし、支えとする。これに勝る武具はないというのが、荒れ野の誘惑の大切な教えではないか。

いつも聖書に親しみ、御言葉を拠り所とした生活を築いていきたい。御言葉は我々を救いの確信に導き、信仰を強め、失望に終わらせることはない。

これこそ悪魔に対する勝利の秘訣である。ヤコブ書は、「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(4・7)と言っている。

イエスの荒れ野の誘惑は、まさにそのとおりであることを証明している。

▼イエスの荒れ野の誘惑物語の中で、荒れ野は意味のない場所、虚しく、わたしたちの存在を脅かす場所である。

そこに転がっている石は、いのちを感じさせるものではなく、むしろ死をイメージさせるもので、その石をイエスがいのちの象徴であるパンに変えていたなら、そこはオァシスへと変わっただろう。

しかし、イエスは石をパンに変えることはしなかった。荒れ野は荒れ野のままだが、聖書では、この荒れ野こそ神が人々と出会われる場所である。

イスラエルが40年間彷程っていた荒れ野でこそ、神は奇跡を行い、人々は神を経験した。神は荒れ野をなくされたわけではない。むしろ、そこで神と出会うことを通して、その荒れ野は神との出会いの場となり、荒れ野はその力を失なう。

イエスによって示された福音は、人間は死ななくなったということではない。人間は死を経験し、死に支配されているけれども、イエスはその死よりも強い力を示した。パウロはそれを「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(1コリント15章55節)という。

受難節は、自分や社会の中にある荒れ野に入っていく時。そこはもはや悪魔の支配する場所ではなく、神を経験する場所。たとえそこで、自分の利益になるもの(パン)がなくても、神の言葉によって生きることをわたしたちはイエスから教えられている。

わたしたちの中にある否定的なものに「荒れ野」という名をつけることによって、そこはイエスが伴われる場に変わる。

■ルカ4・1〜13◆誘惑を受ける
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。

4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』
4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」

4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

V 教会の暦  明日(02/22)は C年 復活前第6主日 受難節第1主日 四旬節第1主日

W その他

お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。

いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。



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後期高齢者‐ 館山道で故郷へ[122] [2015年02月14日(土)]
郷土の歴史文化掘り起こし隊/2月例会報告

T 市の出前講座 「介護保険制度について」(介護福祉課)


1 富津市介護保険の状況について

j介護保険は、介護が必要となったときに安心して本人や家族が生活できるよう社会全体で支え、介護予防を通じて、できるだけ従来の生活が続けられるよう支援する制度です。40歳以上の全ての人が加入し、介護が必要となったときに申請し認定を受けサービスを利用する制度です。

65歳以上の人(第1号被保険者)
 65歳の誕生月に市役所からピンク色の「介護保険被保険者証」を住所地へ送付します

40〜64歳の人(第2号被保険者)
 特定の疾病が原因で介護が必要となった場合、介護認定の対象となります。

介護保険事業<<ここをクリックしてね

富津市社協では、高齢者や介護を必要とされるみなさまの生活を応援しています。
事業所では各種の介護保険事業のサービスを実施しています。
お気軽にご相談ください。

 ご相談いただきました個人情報につきましては適正かつ円滑な運営を図りつつ、個人の権利利益を保護することを厳守いたします。

2 平成26年介護保険制度改正の概要について
  地域における医療及び介護の総合的な確保を推進するための関係法律の整
  備等に関する法律(平成26年(6/25)法律第83号)等による介護保険制度の改正概要について<<介護保険制度改正の概要 及び地域包括ケアの理念 - 厚生労働省-詳しくはここをクリックしてね>>

@ 訪問介護及び通所介護を介護予防給付から地域支援事業に移行
要支援1及び要支援2と認定された要支援認定者が利用する介護予防訪
問介護及び介護予防通所介護を保険給付から地域支援事業に移行し、高齢
者の生活を支援するサービス等と合体して『介護予防・日常生活支援総合
事業』として実施する。

A 特別養護老人ホームの重点化
平成27年4月以降の特別養護老人ホームへの入所を原則要介護3以
上の被保険者に限定。要介護1及び要介護2の場合は、家族による虐待、
認知1'FX能の低下などで、特養以外での生活力喀しく困難な場合に限り特例
的に入所を認める。

B 一定以上所得者の負担割合の見直し
平成27年8月から、一定以上(合計所得金額が160万円:単身世帯
の年金収入のみの場合280万円。第1号被保険者複数世帯の年金収入の
みの場合346万円)の所得のある被保険者のサービス利用時の自己負担
割合が1割から2割に見直しされる。

C 高額介護サービス費の見直し
高額介護サービス費は、自己負担の額がその被保険者等の課税所得等の
状況により定められた額(負担限度額)を超えた場合に、その超えた額を
被保険者の申請に基づき支給するものですが、その負担限度額に現役並み
所得者の場合を設定する。

D 特定入所者介護サービス費(補足給付)の見直し
所得が低い被保険者が施設入所又は短期入所を利用した場合には、その
食費及び居住費の基準費用額と被保険者等の所得等の状況により設定さ
れた負担限度額との差額を特定入所者介護サービス費として補足給付し
ている。この補足給付の対象者の判定に本人の預金等の資産並びに配偶者
の所得及び預金等の資産を加味する。

E 所得の低い被保険者の保険料軽減強化
保険料段階第1段階(現第1段階及び第2段階)の保険料の軽減強化を
し、基準額の45%とする。

F 第1号被保険者と第2号被保険者の負担割合の見直し
介護保険給付費(費用額から利用者負担を控除した部分)の財源は、2
分の1を公費(国、県、市の負担金)、残り2分の1を第1号被保険者及
び第2号被保険者の保険料としている。
この保険料で賄う部分の負担割合が平成27年度から次のように変更と
なる。
○第1号被保険者(65歳以上の者) 21%⇒22%
○第2号被保険者(40歳以上65歳未満の医療保険加入者) 29%⇒28%

U 協議

社会教育団体の役員について協議。

V その他

お昼は、富津イオンにあるスタバで摂った。
    
    帰りの館山道の流れはよかった。




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