今になってですが・・・ [2009年06月09日(火)]
「悲しみは裂けて光になった」
ご存知の方も多いですよね
ホントは、ユチョンのバースデーに記事にしようかと思いましたが、泣いてしまうので
数日経った今、記事にします
涙なくしては読めません・・・
続きからどうぞ。。。。
1998年のある日、12歳の僕は空を渡った。
似ていることとは全然捜して
みることができない場所で
一人きり引き受けるようになった。
酷いさびしさと無惨なホームシック。
結局易しく感情を取り出して
見せることを嫌がった幼い僕が
自ら感情を下げて置く方法で
選んだことはほかでもない涙。
僕は、少しずつ弱くなっていた。
特に闇が濃く敷かれたある日
皆が眠った深夜
横になっている僕の背後で
お母さんの声が聞こえた。
限界に到達したようだという話だった。
お父さんに僕たちをよろしく
お願いすると言ったお母さんは
泣いていて、涙だった。
あの時、すべてのことを知ってしまった
僕はどんなことがあっても
僕の弟だけは決して不足ではない
世の中を渡すと決心した。
そしてそのことに対する責任感の
おかげでその間僕を酷く縛りつけた。
さびしさから今一度自由なる瞬間。
常に僕のそばを守って来たものが
音楽だったのを悟ることになるのは
またやや過ぎてからだった。
そのため僕も誰かの治療の方法に
なってあげたかった。
その道を助けることが
できる人たちに僕の資質を
試験することを数多くお願いした。
そしてやや時が過ぎて
僕を気に入る人が現れた。
5年ぶりに帰ってくる故国。
ところがその飛行機の中での僕は
またひとりだったしそれで僕は泣いた。
最後の日までお父さんと争ってしまった。
僕はまだ相変わらず世間知らずだった
ことが明らかだったし、一人きり
残される弟を置いて来た僕は無責任な
兄さんに過ぎないという気がして
泣くことしかできなかった。
さびしさがまた僕をおそって来た。
結局数年ぶりに足を入れた故国で
完ぺきな他人になってしまった僕は
耐え難い疎外感とむなしさのため他の
子供たちと付き合う代わりに一人で
学校裏の空地でバスケットボールを
しなければなからかった。
幼い時期と同じように
また静かに抜け出して
ぼんやりと座っていたりした。
まだ全てのものが見慣れない時であった。
ところがその時、誰かが近づいた。
彼らは二人だったし私に簡単な
挨拶をしてくれただけなのに、
本当に不思議なことにあらゆる不安を
取り払ってしまうことになったことを
まだ覚えている。
ふと僕は必ずやり遂げることが
できるという確信を得られたようだ。
そして2003年夏、ちょうど新しい
プロジェクトが始まったが、驚くことに
そこには僕とその二人、そして初めて
見る練習生二人がいた。
韓国に帰って来てから3ヶ月ぶりに
得られた機会だった。
それだけでなく僕の不安を
はらい落としてくれたその二人は
それぞれ僕たちのチームのリーダーと
心強い一番上の兄になってくれたし、
その日初めて見た練習生二人もまた
それぞれ僕の友人と弟になってくれた。
驚くことに“家族”が作られたのだ。
このように僕たちが集まってから
舞台に上がるまでの時間は本当に
短かったし、また不安だったけれど
それにもかかわらず、僕たちは誰が
見ても堂々としていることができる
ほどの実力をそろえておきたかった。
それで僕たちは本当に熱心に生きたし
おかげでより大きい夢を目指せた。
結局僕たちはかなりよい姿で
舞台にあがることができたし
まもなく僕たちの音楽を大切に
する人々ができた。夢を叶えたのだ。
このように‥
悲しみは裂けて、光になった。
出処:DNBN様
似ていることとは全然捜して
みることができない場所で
一人きり引き受けるようになった。
酷いさびしさと無惨なホームシック。
結局易しく感情を取り出して
見せることを嫌がった幼い僕が
自ら感情を下げて置く方法で
選んだことはほかでもない涙。
僕は、少しずつ弱くなっていた。
特に闇が濃く敷かれたある日
皆が眠った深夜
横になっている僕の背後で
お母さんの声が聞こえた。
限界に到達したようだという話だった。
お父さんに僕たちをよろしく
お願いすると言ったお母さんは
泣いていて、涙だった。
あの時、すべてのことを知ってしまった
僕はどんなことがあっても
僕の弟だけは決して不足ではない
世の中を渡すと決心した。
そしてそのことに対する責任感の
おかげでその間僕を酷く縛りつけた。
さびしさから今一度自由なる瞬間。
常に僕のそばを守って来たものが
音楽だったのを悟ることになるのは
またやや過ぎてからだった。
そのため僕も誰かの治療の方法に
なってあげたかった。
その道を助けることが
できる人たちに僕の資質を
試験することを数多くお願いした。
そしてやや時が過ぎて
僕を気に入る人が現れた。
5年ぶりに帰ってくる故国。
ところがその飛行機の中での僕は
またひとりだったしそれで僕は泣いた。
最後の日までお父さんと争ってしまった。
僕はまだ相変わらず世間知らずだった
ことが明らかだったし、一人きり
残される弟を置いて来た僕は無責任な
兄さんに過ぎないという気がして
泣くことしかできなかった。
さびしさがまた僕をおそって来た。
結局数年ぶりに足を入れた故国で
完ぺきな他人になってしまった僕は
耐え難い疎外感とむなしさのため他の
子供たちと付き合う代わりに一人で
学校裏の空地でバスケットボールを
しなければなからかった。
幼い時期と同じように
また静かに抜け出して
ぼんやりと座っていたりした。
まだ全てのものが見慣れない時であった。
ところがその時、誰かが近づいた。
彼らは二人だったし私に簡単な
挨拶をしてくれただけなのに、
本当に不思議なことにあらゆる不安を
取り払ってしまうことになったことを
まだ覚えている。
ふと僕は必ずやり遂げることが
できるという確信を得られたようだ。
そして2003年夏、ちょうど新しい
プロジェクトが始まったが、驚くことに
そこには僕とその二人、そして初めて
見る練習生二人がいた。
韓国に帰って来てから3ヶ月ぶりに
得られた機会だった。
それだけでなく僕の不安を
はらい落としてくれたその二人は
それぞれ僕たちのチームのリーダーと
心強い一番上の兄になってくれたし、
その日初めて見た練習生二人もまた
それぞれ僕の友人と弟になってくれた。
驚くことに“家族”が作られたのだ。
このように僕たちが集まってから
舞台に上がるまでの時間は本当に
短かったし、また不安だったけれど
それにもかかわらず、僕たちは誰が
見ても堂々としていることができる
ほどの実力をそろえておきたかった。
それで僕たちは本当に熱心に生きたし
おかげでより大きい夢を目指せた。
結局僕たちはかなりよい姿で
舞台にあがることができたし
まもなく僕たちの音楽を大切に
する人々ができた。夢を叶えたのだ。
このように‥
悲しみは裂けて、光になった。
出処:DNBN様
誕生日には、「辛い過去」って一言で済ましてましたが、ホントに大きな過去を背負っていますよね
どうしたら、そこまで強くなれるのだろう・・・と思ってしまいます。
先日、ミロコンを視聴していて、アレンジした「HUG」を聴いてまたまた思い出したのです
彼らのデビュー曲
ユチョン語で言えば、「僕らをこの世に出してくれた曲」
ホントに言葉のバリエーションが豊かですよね
やっぱり、これは才能です
努力では超えられないことですよね
これからも愛するメンバーと共に、いつまでも・・・・
この言葉。
かなり重みがあって、大きな過去を背負ったなって…
でも、今は大切な家族と共に暮らせて、気持ちが安定しているんだなって伝わってきます
今日も参戦してきます
昨日はかなりものすごーく盛り上がって、疲れました…(笑)
今日も盛り上がって良さそうだー
アタシはファンになってすぐにこのコトを知りました
なんていうか・・・
うまく言葉であらわせません。
でも過去ですよね
今は光輝く存在ですもんね
ホントにこの5人の存在を知ることができて
幸せに思います
教えてくださりありがとうございます。
それでは明日のLIVE
めちゃんこ楽しんできてもよっさそうだ
・・・また調子こいてしまいました