江戸流・鮨の食べ方 [2017年03月24日(金)]
朝食:塩鰤切身〈魚・冬・89〉、法蓮草浸し(汚し)〈精・春・14〉、鮪のフレーク、嫁菜飯、味噌汁(豆腐・辛子)、香、梅干、白湯
昼食:ニラレバ炒め、餃子、ビール 〔北千住:福しん〕
夕食:食パン(アフォエン)、ブリーチーズ、酎ハイ
間食:
、茶、紅茶(牛乳)


昨年の暮れに同僚から借りた、杉浦日向子の『お江戸風流さんぽ道』の中で「鮨は礼を尽して食すもの」と題して、こんなことを書いてました。(pp.106―107)
この本の初版が1998年*ですから、『江戸塾』の翌年、『美味草紙』と同年の出版ということになります。
「鮨を食べるときには江戸ならではの慣習があります。握りや、がりなど職人さんから直に手で出されれれば水雲や刺身の盛りなど箸で盛りつけられるつまみ類は箸でいただくというものです。握りで箸を使うのは興の薄いことです。そして何より、出されたらすぐ食べるのが鉄則です。これは生命を呈した目前の素材に対する感謝で、生命を受け取り命を継ぐという「いただきます」の礼儀というものです。つまり、殺生を前提とした食の営みを、慎んでいただくという厳粛な気持ちの表れでもあり、より身近に殺生にかかわる鮨と鰻では、割り箸を縦に割って、一拝してから食すべしといわれます。」(p.107)
さすがに本書では「口腔容積云々」などと、荒唐無稽なことはおっしゃっていませんが、身近な殺生ならば、天ぷらはどうなのでしょうね。
それはさておき「いただきます」という挨拶は、食を提供する生産者、親、ひいては天地神仏に対しての感謝だったはずです。
「いただきます」が「食材の生命への感謝」といった抹香臭いことを言い出したのは、今から20年ほど前からですから、そんなに古い話ではありません。
昔、明 ミン の坊さんから、「日本人は殺生するのに、相手が物を言わない魚なら平気なのに、鳴き叫ぶ豚だとかわそうでたまらないという」と、揶揄されたくらいですから、「命をいただく」なんて発想がおこるはずがないんです。
そもそも「いただきます」という挨拶自体が、昭和の初め、それも戦争間近になって広まったプロパガンダなんでです。
ほかにも「握りで箸を使うのは興の薄いこと」といいながら、「割り箸を縦に割って」食すべしとか、ヒナコ節満載ですが、今日はこのへんで。
昼食:ニラレバ炒め、餃子、ビール 〔北千住:福しん〕
夕食:食パン(アフォエン)、ブリーチーズ、酎ハイ
間食:



昨年の暮れに同僚から借りた、杉浦日向子の『お江戸風流さんぽ道』の中で「鮨は礼を尽して食すもの」と題して、こんなことを書いてました。(pp.106―107)
この本の初版が1998年*ですから、『江戸塾』の翌年、『美味草紙』と同年の出版ということになります。
「鮨を食べるときには江戸ならではの慣習があります。握りや、がりなど職人さんから直に手で出されれれば水雲や刺身の盛りなど箸で盛りつけられるつまみ類は箸でいただくというものです。握りで箸を使うのは興の薄いことです。そして何より、出されたらすぐ食べるのが鉄則です。これは生命を呈した目前の素材に対する感謝で、生命を受け取り命を継ぐという「いただきます」の礼儀というものです。つまり、殺生を前提とした食の営みを、慎んでいただくという厳粛な気持ちの表れでもあり、より身近に殺生にかかわる鮨と鰻では、割り箸を縦に割って、一拝してから食すべしといわれます。」(p.107)
さすがに本書では「口腔容積云々」などと、荒唐無稽なことはおっしゃっていませんが、身近な殺生ならば、天ぷらはどうなのでしょうね。
それはさておき「いただきます」という挨拶は、食を提供する生産者、親、ひいては天地神仏に対しての感謝だったはずです。
「いただきます」が「食材の生命への感謝」といった抹香臭いことを言い出したのは、今から20年ほど前からですから、そんなに古い話ではありません。
昔、明 ミン の坊さんから、「日本人は殺生するのに、相手が物を言わない魚なら平気なのに、鳴き叫ぶ豚だとかわそうでたまらないという」と、揶揄されたくらいですから、「命をいただく」なんて発想がおこるはずがないんです。
そもそも「いただきます」という挨拶自体が、昭和の初め、それも戦争間近になって広まったプロパガンダなんでです。
ほかにも「握りで箸を使うのは興の薄いこと」といいながら、「割り箸を縦に割って」食すべしとか、ヒナコ節満載ですが、今日はこのへんで。